(2020年5月)母の日に寄せて
今日は母の日ということで、実母について書いてみたいと思います。
以前に少し触れましたが、私の母は、2006年の3月に63才で亡くなりました。
多発性骨髄腫
という病気でした。
最近では、夫婦漫才の宮川花子さんが、この病気を患っている事を公表されたので、聞いたことがある方もおられると思います。
「血液のガン」という言い方が一番わかりやすいかな?
骨髄で、正常な血液型作られなくなり、要するに、全身、どこでもガンが出来る可能性があるということ。
2003年に、実家暮らしだった私が結婚してからは、両親に頻繁には会っていませんでしたが、母は、趣味の習字や、父と旅行、ダンス教室に通ったりと、生き生きと暮らしているように見えました。
ある日、ダンス教室で、少し足が痛くなり、近所の整体に通い出した母。
通ってもなかなか良くならず、むしろ悪くなる一方。
なので、整形外科を受診しました。
そこの整形外科は、昔は流行ってましたが、現在は老医師がやっていて、わたし的には「違う病院にしたら…?」なんて言ってましたが、「あの先生は腕がいい」と(いつの情報だよ)譲らず。
そこで、股関節部分にヒビが入っていることが判明。
何回か通っている時、たまたま、老医師の息子医師(東京で整形外科をやっている)が担当の日に当たり(月2とかそんなレベル…今となっては、ホントにラッキーだったと思ってます)
ちょっと気になった息子医師が、精密検査をしたところ、多発性骨髄腫が判明したのです。
多発性骨髄腫の特徴として、
貧血
骨が脆くなる
腰痛
病気にかかりやすい
便秘気味
・
・
・
色々あるそうですが、母の場合は、骨折から判明しました。
当時の私は、オットの転勤について行って「島」で暮らしていたので、簡単には会えず。
でも、仕事もしていなくて、子どももいなかったので、月の半分は、実家に帰り、月の半分は島で暮らす…みたいな生活が始まりました。
母の看病というか、介護は、主に父がしていました。
父は、昔は単身赴任も経験していたので、家事全般こなせていたので、助かりました。
(兄は仕事が忙しく、あまり戦力にならない)
足の悪い祖母(父の母)も同居していたのですが、父一人では、祖母と母の両方は看きれず、祖母には老人ホームに入ってもらいました。
父は、叔母たち(父の妹2人)の協力のもと、何とか両立していました。
母の治療は、抗ガン剤や、サリドマイドを使っての、かなりきつい治療でした。
サリドマイド
聞いたときは、なんだか、怖い薬だけど、そんなモノ使っていいの??という、恐怖しかありませんでした。
でも、主治医の先生から
サリドマイドは、薬として使う分には有効性が認められるということを丁寧に説明していただきました。
現在は、治療方法も格段に進歩しているそうなので、当時とはまた違うと思いますが、それでも、花子さんの様子をたまにTVで見ると、母と重なってしまいます。
股関節の骨折の後は、
鼻の奥の腫瘍、
手の骨折、
脳にも転移し、それが、言語をつかさどる場所だったようで、最後は、喋ることもできなくなりました。(こっちの話す内容は理解しているようでした)
当時の私は、母の深刻な病気は頭では理解していても、どこかで「母は死なない」と思っていました。
子どもにとって、母が居なくなるなんて、もっともっと先。
「アンタが働いてる間、お母さんが孫をみてあげる」と、まだ孫もいないのに、夢を語っていた母。
まだ、私、あなたの孫を産んでないよ…
主治医の先生から、色んな可能性の話を聞いても、
助かるわずかなパーセント、
良い方向へ行くパーセント
の方に母がいるとどこかで信じていました。
その当時はまだ、母の実母(私のおばあちゃん)も健在で、病気のことはおばあちゃんにはずっと伏せていたのですが、もう母は長くないと判断したのか、父が病院に呼びました。
入れ替わり立ち替わり、母の実母、母の姉、母の姪っ子、おばさん、義理兄…顔を見にきて、廊下で泣いているみんな。
お見舞いの人に対して、何も言わず(言えず)じっと見ている母。
「そんなにみんなが来たら、母が、自分の死期を悟るんじゃないの?」「最後のお別れみたいですごく嫌だ」
と、心の中では思っていました。
今にして思えば、一番分かっていないのは娘の私でした。
そして、その時は、ある日突然やってきました。
いつものように、夕方まで病院にいて、実家に帰って父と兄と私の夕飯を作り始めた時。
病院からの電話。
…嫌な予感しかしない…
「…もしもし」
「ああ、〇〇さんの娘さんですか?お母さんが、ちょっと意識がなくなって…すぐ来られますか」
「は、はい」
ボーッとする頭の中で、とりあえず、コンロの火を消し、父の携帯に電話…携帯が父の部屋で鳴ってる
またかっ
父は、携帯電話をいつも置きっぱなしにして出るクセがあり、もはや携帯でも何でもない…
父が、午後寄ると言っていた予定のところに電話したら、さっき、もう帰られた、と。
くそっ!
兄に電話…すぐ繋がり、これから病院に向かうとのこと。
わたしは、父に書き置きを残して、家の鍵を閉め、車で病院に向かいました。
向かう途中で、
「まだ」
「まだ死んじゃダメ」
「早いよ」
「今じゃない」
そんな事を言いながら、号泣して運転していた記憶があります…事故起こさなくてよかった…
病室に着くと、兄はもう着いていて、枕元にいました。
素人目にも、ああ、もう無理かな…
と思うくらい、呼吸が荒く、目は朦朧。
本当に辛そうでした。
手を握ったけど、何も言えずに、ただそばにいるのが精一杯でした。
私があまりにも無言だったせいか
看護師さんが「お母さんに声をかけてあげてもいいんですよ」と言われましたが、ほんとに、思いつかなかったんです。
「お母さん、死んじゃダメ」
「頑張って!」
…とは言えない。
だって、もう充分頑張ってるんだもの。
苦しそうだもの。
早く楽になってほしい
でも
「早く楽になっていいから」
とも言えない
「ありがとう」
もなんか違う
「さようなら」
も違う…
後々、ここで声をかけれなかった自分を悔やむ日々が続きました。
少しして、父が到着。
父は、携帯はおろか、家の鍵さえ持って出ておらず、でも、異変を感じたのか、ガラス窓をこぶしで割って中に入ったそうです
…カギ、かけなきゃよかったよ…
父、兄、私が揃ったのを見届けたかのように、母はその生涯を閉じました。
ああ、よかったね、これで楽になったね。
しんどかったね。
いいよ、楽になっていいからね。
悲しさよりも、ほっとした事を鮮明に覚えています。
それからは、断片的な記憶しか残っていません。
部屋の片付け、通夜、葬儀…
忙しすぎて悲しむ暇もないという感じ。
本当の意味で悲しさがやってくるのはだいぶ後、数ヶ月後でした。
経験された方は分かると思いますが、悲しさがやってくる時って、ほんとにいきなりなんですよね。
まさに、悲しさが襲ってくるって感じ。
吐くような感覚で、涙が出てくる。
母の洋服の整理をしていた時、母の匂いがしたんです。
それは私がおんぶされてた時代、嗅いでた匂い、そこから見える風景が、生々しく広がりました。
あとは、ちょうど私と母くらいの年齢の親子を見かけた時。
…もう、私は、母には会えないんだなーと、
本当に、そこで悟りました。
あれから14年経ち、そんな生々しい悲しさは襲ってきません。
それはそれでお母さん、ごめんねっ
一番近い気持ちは
もう、私が死ぬまで会えないけど、父と母が、すごく遠くの外国に、元気で暮らしてる、
…っていう感じかな?
こうやって、人は、死が怖くなくなっていくのでしょう。
少なくとも、私は。
だって、あっちに、知った人が沢山いるんだもの
あ、父のことは、父の日に書こうと思います。
今回は長くなっちゃいました。
お付き合いありがとうございました
今日の、母の日の事はまた書きますね
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